60年前の事

毎日暑い日が続く。終戦のあの時も暑かったような気がする。正直言って、ああやっと終わった、と、感じた。戦時中のこと、特に負け始めてからの悲惨な状況は、テレビ、新聞で毎日報道されている。今更のように、戦争の恐ろしさ、悲しさを思う。あの頃我々庶民は、軍に都合のいい事だけしか知らされなかった。私があじわった戦時中の辛さなんか取るに足らないものだけれど、周り中が焼けて何処に逃げようかと表通りに出たときの、黒い煙と真っ赤な焔の渦巻きは今だ鮮明に、覚えている。梯子を伝って女子学習院の校庭に逃げた。外苑の野球場には、軍の食料がつんであって、缶詰などがボンボン音を立てて燃えていた、なんか食べられる物あるかな、と探しに行ったけれど、お味噌らしき物、お砂糖らしき物も、それなりの色をして、燃えていた。
親戚の安否を尋ねて行く途中、神宮参道でブリキで覆って遺体を荼毘にふしていた人がいた事も忘れられない。
親戚は、無事だった、叔母がほうけたような顔をして庭に莚を敷いて座っていた、お互いの無事を喜んだのも、思い出の中にある。防空壕の上に在り合わせの木を集めて建てた小屋の生活も、寒さに耐えられなく、12月知り合いを頼って、24時間、汽車に揺られて、佐賀に来た。緑の茂った県庁前の、お堀と、楠の木の美しさは、大げさではなく、此処も日本なのかと、疑うほどだった。
あれから60年色々ありました。
そして平成17年、おとうさんの、新盆を迎えた。
戦争で犠牲になった方々の無念さを、思えば、月並みな言い方だけれど、生きている有難さを、感謝する。